はいじどう、ぜんじどう。

なんでも自動で出来る時代になると思ってたらそうでもなかった。

春より前に散る桜

先生に、いつも私は気づいていないふりをしていた。

 

恩師が亡くなった。ネットで知る時代だ。まだ60歳、親と同じ歳頃だ。

私が学生だった時に「この人以上に厳しい人はいない」と感じた人がその人だった。もちろん今ほど若者に厳しい時代じゃなかったこともあるけれど、入学して間もない私たちに対して、美大という"皆が好きなことをしている楽しい場"と勘違いしがちな場所に対するイメージに一石を投じてきた人だったと思う。

 

きみたちはここに何をしに来たか。世の中に目に見えて役に立つ職業というのはたくさんあるが、自分たちは好きなことで食っていこう、その好きなことはデザインだとのうのうとぬかしているのではないか。そのデザインで人の役に立つ。人の命にも関わり、人の癒しにもなり、感情を左右されるものであり、またそのデザインがあることによって人の動きに流れができてゆく。すべてに責任を持って自分のものとして世に出していく覚悟をもたねばならない。

 

そんな話をしてくれた先生だった。代表作はペニンシュラ東京です。もうあれは日本を代表する建築物の一つといっても過言ではない。本当にすごい人に教わっていたんだなぁ。

課題の締め切りが極短期で、図面と一緒に模型も提出してプレゼンまでやるはずだったと思うんですけど、他にも皆色々と課題抱えてたりして全然追いつかず、中間報告に誰も間に合わなかったんですよね。決してサボっていたわけではなく、頑張ってたんです。頑張っていたのにも関わらず追いつかなかった。それを先生は「同時進行ができなくて、社会に出てどうするつもりか」と言い放ち、このままでは全員に単位を取らせないと言ったんです。ハッパかけたつもりだと思うんだけど、これで落ち込んだ子は多かった。なにより怖かったから、あれを受けてなにくそ根性で食らいついてくる学生を見抜きたかったのだと思うのですが、心が折れた子にも同情しました。私はなにくそ根性派だったので、教員免許のための授業も並行してやってたからあの辺りは記憶にないくらい、勉強か課題かみたいな感じでした。学費以上のことをしてきたと思います。その自信はある。

 

その甲斐あってかわかりませんが、その後仕事先で先生の設計会社が手がけた場所で一緒に仕事をする機会があったりしたんです。二度も。

風貌はだいぶ変わったにせよ、話せばきっと覚えてくださっているだろうと思ってたんですけど、私は自分から声がかけられなかった。それは、自分がいまここで何に携わっていてどういう経緯でいるのかを説明できそうになかったから。自信がなかったからなんです。確かに同じ場所にはいるけれど、今こういうことをしていて、今回はこの件をやったのでここにいますと胸をはって言えるようなレベルのことをしていないと思った。だから、声がかけられなかった。あの頃はまだ先輩にくっついてまわっているだけで自分一人で出来る仕事なんてなかったから、気づかないふりをして、あの鋭い眼差しをちらり、ちらりと横目に見ているだけだった。

でもこの業界にいればまたいつか会える。

一人で仕事ができるようになって、こういうところをやりました、ああいうところもやってますって言えるようになったら次こそ声をかけようと思っていたのですが、その願いは叶わなくなってしまいました。

 

先生、私思うんです。

やっぱね、この仕事するなら、特に女性は業界的に差別もされがちだからマジでくそ根性がないとどうにもならない。心が折れても、体がついていかなくても、それをまっすぐに無理矢理にでも体勢整えて歩き続けていかないといけないんだということをあの時に教えてくれたんですよね。好きなことを仕事にすることがいかに厳しいことか、難しいことなのか、楽しい学生生活だったけど先生の授業が一番それを学べたんです。

 

後日お別れの会があるようですが、おそらく(行ければ)、ここには当時の学友たちが揃うのではないかと思っています。それくらいインパクトのある人で、いまも照明業界、建築業界、あちこちで活躍している級友たちにとっての本当の恩師だったので。

 

先生、私がそちらに行くのはもうちょっと後になりそうですが、いい感じのレストランでも作って待っててください。笑ってるところを見たことがないんですが、天国では私たちのダメな仕事ぶりを笑っていてほしいです。