はいじどう、ぜんじどう。

なんでも自動で出来る時代になると思ってたらそうでもなかった。

敷かれたレールに乗っただけの社会人たち

まずは新社会人の皆様、ご就職おめでとうございます。

今の時代、変に傷つくこともつらい思いをすることもなく、ただただ会社に所属していればお金がいただけるような仕組みになっているので、きっと仕事に慣れてくるとこの日本社会そのものに疑問を抱くことでしょう。なにはともあれ、仕事に邁進していただきたく思います。がんばるがいいさ。

 

さて、本日は「社員に、会社の偉い方がお話をする会」なるものが開催されました。

前列から、見栄えのするマシな若手の女子(もうこの時点でアウト)、新入社員、三年目、四年目・・と若手から順々に並ばされて私の後ろ列からが管理職という感じで「後ろに行くにつれて偉くなっていく式」の座席配置になっていまして。なんかもう序盤でツッコミどころ満載なんですけど、一番前が三年目だか四年目くらいの女子なのは何故なのか。笑

で、そこでこんな話が出たんですよ。

管理職に上るには、偉い方々との面接と筆記試験があるんですが、その筆記の文章がもうみんな揃ってテンプレでつまらんわと。

どんなことを書いてくるかというと、ほぼ全員、必ず、もう絶対にこう書いてくるんだそうです。

「今までは個の力を磨いてきたが、これからは部をまとめる者としてチーム全体の力を磨く」

・・・

・・

だっせえ!!!!!!!

 

そら読み飽きもするし、テンプレですわ!この場をお借りしてもうこれ書かないでね飽きたよって言いたくもなるわ!と思いましたよね。っていうかそもそも今まで個の力なんて磨いてきました?ただ会社にいただけで年数が経ったから管理職になったんですよねえ、という結果がバレバレで何も自分に突出したものがないからこういう試験でもテンプレ祭が起きてしまうのだと思うんですよ。うちの管理職ラインは40代半ばとかなので、想像するに大の大人がこれを揃いも揃って書いてくるとは、私が偉い人でもさすがにお前らもうちょい頭使って来いよと言いたくなります。

これぞ、敷かれたレールに乗っただけの社会人たち。もうただただ会社にいるだけ。守られているだけ。昔の方が確かに厳しかったし、私もそういう世代だけれども、結局ちょっと上の人たちもそう。私もそう。守られているだけの、ただ走る電車なわけです。操縦者は会社。駅に停まったり、信号横を通過したりを繰り返しながら全員を乗せて目的地に向かう。ただそこに、私は圧倒的な「この人たちの考え方というのは同調圧力を感じる」という負の思いを追加で乗せざるを得ない。

あと一列にまで迫った管理職という壁がものすごくペラペラで、この人たちそんなことしか書かずにいまそこにいるのかと白けた目で見てしまう私をどうかお許しくださいと思うと同時に、私にも文才があるわけではないのでこのことはさっぱり忘れて数年後にテンプレ通りのことしか書かないですよという予告しかできないのでしょう。

 

また春が始まりました。

そんなこと言い聞かされなくてもわかってるよっていうことばかりの話だったけど、なんか上の人たちも退屈してるんだなっていうのが分かったことは面白く捉えておこうと思います。

春より前に散る桜

先生に、いつも私は気づいていないふりをしていた。

 

恩師が亡くなった。ネットで知る時代だ。まだ60歳、親と同じ歳頃だ。

私が学生だった時に「この人以上に厳しい人はいない」と感じた人がその人だった。もちろん今ほど若者に厳しい時代じゃなかったこともあるけれど、入学して間もない私たちに対して、美大という"皆が好きなことをしている楽しい場"と勘違いしがちな場所に対するイメージに一石を投じてきた人だったと思う。

 

きみたちはここに何をしに来たか。世の中に目に見えて役に立つ職業というのはたくさんあるが、自分たちは好きなことで食っていこう、その好きなことはデザインだとのうのうとぬかしているのではないか。そのデザインで人の役に立つ。人の命にも関わり、人の癒しにもなり、感情を左右されるものであり、またそのデザインがあることによって人の動きに流れができてゆく。すべてに責任を持って自分のものとして世に出していく覚悟をもたねばならない。

 

そんな話をしてくれた先生だった。代表作はペニンシュラ東京です。もうあれは日本を代表する建築物の一つといっても過言ではない。本当にすごい人に教わっていたんだなぁ。

課題の締め切りが極短期で、図面と一緒に模型も提出してプレゼンまでやるはずだったと思うんですけど、他にも皆色々と課題抱えてたりして全然追いつかず、中間報告に誰も間に合わなかったんですよね。決してサボっていたわけではなく、頑張ってたんです。頑張っていたのにも関わらず追いつかなかった。それを先生は「同時進行ができなくて、社会に出てどうするつもりか」と言い放ち、このままでは全員に単位を取らせないと言ったんです。ハッパかけたつもりだと思うんだけど、これで落ち込んだ子は多かった。なにより怖かったから、あれを受けてなにくそ根性で食らいついてくる学生を見抜きたかったのだと思うのですが、心が折れた子にも同情しました。私はなにくそ根性派だったので、教員免許のための授業も並行してやってたからあの辺りは記憶にないくらい、勉強か課題かみたいな感じでした。学費以上のことをしてきたと思います。その自信はある。

 

その甲斐あってかわかりませんが、その後仕事先で先生の設計会社が手がけた場所で一緒に仕事をする機会があったりしたんです。二度も。

風貌はだいぶ変わったにせよ、話せばきっと覚えてくださっているだろうと思ってたんですけど、私は自分から声がかけられなかった。それは、自分がいまここで何に携わっていてどういう経緯でいるのかを説明できそうになかったから。自信がなかったからなんです。確かに同じ場所にはいるけれど、今こういうことをしていて、今回はこの件をやったのでここにいますと胸をはって言えるようなレベルのことをしていないと思った。だから、声がかけられなかった。あの頃はまだ先輩にくっついてまわっているだけで自分一人で出来る仕事なんてなかったから、気づかないふりをして、あの鋭い眼差しをちらり、ちらりと横目に見ているだけだった。

でもこの業界にいればまたいつか会える。

一人で仕事ができるようになって、こういうところをやりました、ああいうところもやってますって言えるようになったら次こそ声をかけようと思っていたのですが、その願いは叶わなくなってしまいました。

 

先生、私思うんです。

やっぱね、この仕事するなら、特に女性は業界的に差別もされがちだからマジでくそ根性がないとどうにもならない。心が折れても、体がついていかなくても、それをまっすぐに無理矢理にでも体勢整えて歩き続けていかないといけないんだということをあの時に教えてくれたんですよね。好きなことを仕事にすることがいかに厳しいことか、難しいことなのか、楽しい学生生活だったけど先生の授業が一番それを学べたんです。

 

後日お別れの会があるようですが、おそらく(行ければ)、ここには当時の学友たちが揃うのではないかと思っています。それくらいインパクトのある人で、いまも照明業界、建築業界、あちこちで活躍している級友たちにとっての本当の恩師だったので。

 

先生、私がそちらに行くのはもうちょっと後になりそうですが、いい感じのレストランでも作って待っててください。笑ってるところを見たことがないんですが、天国では私たちのダメな仕事ぶりを笑っていてほしいです。

備えあれば憂いなし

前回の大きな地震のときはターミナル駅でタクシー長時間待ちを強いられましたが、今回は電車の中でした。23時をすぎてから起きる地震は本当に罪深いですよ、地球さん。

今回はあの警報大合唱が一切なく、一番最初の知らせはLINEで「いまどこ?揺れ始めてる」と貰ったのがきっかけでした。

数秒とたたないうちに電車が急減速し、カーブのところで停車しまして「強い地震です」とアナウンスがあったんですね。カーブなんで内向きに車体が斜めになってたんで、揺れが強くなってきた瞬間に立っていた人がしゃがみ込み、座っている人もカーブに向かって内側を向いている人はみんなどこかに捕まっていないと耐えられないような感じでした。長いな〜まだ揺れてるな、、と思った瞬間、すぐそばで顔を真っ青にした男性が倒れたんです。

「急病人だ!ボタン!ボタンを!!」

と、周囲のサラリーマンたちが近くにあった緊急時の非常停止ボタンを押すように私や周りの人たちに急かしてきました。確かに急病人が出たときにはこれを押すのが正解です。

でも、きっと今は乗務員さんも地震の連絡の方で間違いなく手いっぱいで、こっちまで来てもらったりここで状況説明して手を取らすよりは次の駅までまずは運転してもらって、確実にこの人を介抱してもらえたほうがいいはずだと判断しました。さらには、これを押すことによって状況を知らない他の車両の人たちがただでさえ恐怖でいっぱいなのにさらに恐怖心を煽ることになるかもしれず、ボタンを押すことが賢明ではないと思ったからです。(ご本人の命に関わるような状態であればもちろん押すのが一番です。その時の状況次第です)

「私が乗務員さんに話をしてきますのでこの方をお願いします」とお願いして、斜めにゆらゆらしている車内を走って乗務員さんのところまで行きました。案の定大混乱の車掌室でしたが、コンコンとノックすると「この車両で、こういう方がいて、今は乗客で介抱しているのでもし少しでも電車が動くようなら次の駅で救護してください」という話を聞いてもらえました。

時間はかかりましたが無事に徐行運転が再開し、次の駅で具合の悪い方が救護されていきました。この間にも、あちこちで「気持ち悪い」「こわい」「吐きそうだ」という声が聞こえていたので、密閉空間でゆらゆらが続く(斜めになっていたので揺れているような感覚だった)という状況は人にダメージを与えるのだなと実感しましたね。疲れてましたが私は元気だったので、そのあとは会社の人との連絡に必死でした。帰れなかった人もいましたが、うちはそういうとこ厳しいんでみんなちゃんと朝から出勤してきてます。笑

 

ふかーーーい時間に帰宅すると、王子がビビっておしっこを漏らしていて。あーーそうだね怖かったよね・・と慰めながら掃除をし(臭い取れないですよねえ。朝になっても全然取れず)寝ぼけ眼でいつもより早く出て、打ち合わせをしてきました。

 

こういうことって急に起こることなので、何が正しくて何が不正解かはわからないんですが、こういうときはこうしよう、ということは常に考えてないと次のステップが思い浮かばないですね。現に、みんなボタンを押すことをためらっていたから、ボタンボタン!と言うものの「自分が押すのはちょっと」という感じがしました。押すほうがいいと思うなら自分から押さないと。責任は取りたくないという思いが先行しているように思いました。

 

地震が夜遅くにおきる度に外で影響を受けていますが、その都度「こういうときはこうするべきか」と考えさせられることがとても多くあります。タクシーは、外れ道まで行って捕まえようとするより絶対並ぶのが◎です。ちょくちょく来ますし、人数は多くても並んでる方が早くタクシー乗れます。これは教訓です。

その道を行くという強い心

今仕事でお世話になってる、某工場に先日行ってきまして。テレビでたまにその工場が特集されるんですけど、今回は放映直後だったので「いまクレームの電話対応が大変で」ということをおっしゃっていました。まあ、どういうことかいいますと「このご時世でこんな人の育て方はありえない」というクレームなんですよね。

結構その都度SNSでも話題になるのでご存知の方も多いかと思うのですが、日本でこんなにも厳しい職場があるのかというレベルです。いまどき言葉で言えばレベチです。だがしかしここで育った人たちは人格が一般人と違う。ただただ人として"出来る"人たちの集団で、私なんかが踏み入れてはいけない領域だと肌で感じました。

5年間修行の身なんですけど、男女問わず入ったら坊主。有無を言わさず恋愛禁止、酒タバコスマホ禁止、親からの小遣い禁止、完全寮生活とか山のように決まり事があるんです。これを20代ないし30代の五年間、毎日毎日こつこつとこなして修行をしていくんですよ。二度風邪引いたら減給で三度目でクビ。まじかよって思うじゃないですか。まじなんです。

 

私たちの業界も精神力と体力が全てで、どっちか一つが欠けると自然と脱落していきます。朝早く起きる気合いと、夜遅くまでかかってもやり通す根性、それを休みがなく毎日毎日続けていける体力がないとどうにもなりません。風邪で1日休もうものなら仕事が何件も止まってしまうからです。だから、風邪を引きやすいっていうのはだめなんですね。

 

それにしても一流の職人さんというのは本当に出来た人しかなれないものなのだと、私なんかこの中で言ったら人間レベル最低だなと思った1日でした。

ただ、若手扱いされていて笑、工場から工場までは基本ダッシュ、あれはなんの素材か、あれはどうやってできているかわかるか、などなど色々と試されて冷や汗しか出ませんでした。

テレビだけ見ていると中のことはわかりません。

でも、その中では絶え間ない努力と、テレビに映らない部分の色々な葛藤や思いがあると思うんです。クレームをつける人たちに是非見て欲しい、本当に彼らが「道を行くために生きている」姿を。そこには霞んだものはなにもないし、彼らの目と手は本物であると私は確信しました。彼らが10の人の心を持っているとするなら私はほんの1か2です。それくらいの差があります。

こんな工場が日本にあってくれてよかった。厳しさあっての職人への道だと思いますが、強い心を持って、どんどん日本の技術を底上げしていってほしいです。いつかあそこの職人さんたちがつくったものを買おうと思っています。

コロナが軽症だった場合の行動歴

私と一緒に動いている営業のうちの一人が陽性と判断され、10日ほど自宅療養をして娑婆に戻ってまいりました。これは昨日詳細に聞き取った結果ですが、まあ人間そんなもんで、そういう人が多かったらそれは拡がるよねという記録です。

基本スペックは、男性20代後半、常に健康、ただし毎日浴びるほどお酒を飲む、タバコも吸う、緊急事態宣言や蔓延防止なんぞなんのその、いついかなる時でも飲み歩くようなそこそこ空気の読めないやつで案の定かかってしまったというわけで、会社の中でも「あーあやっぱり」感の強い方に捉えられて全く同情されていませんでした。残念ながら自業自得。

 

土日を経て月曜日、やや体調に異変を感じながらも出勤する。

火曜日、喉に違和感があり声が出ない。私に「これから身の潔白を証明すべく病院に行きますが、万が一そうだったらすんません」と連絡あり。

火曜日は朝から電話をかけまくり、どの病院も検査を受け入れてもらえず在住の埼玉県の遠い市まで検査をまわされる。この時点ですでに夕方で、本当に1日中どこも受け入れてもらえなかったという。

夕方、自力で病院へ行き陽性。「ちなみにここまでは自家用車ですよね?」→「いいえ、電車です」→「なにやってるんですか」→「車持ってないし、ここまで電車でも一時間以上かかるから・・」

帰りは仕方なく、マスク二重・要ビニール手袋で電車にて帰される。

 

 

「明らかにこいつ陽性判定受けて帰ってる途中だよなっていう目で見られる」

 

ことに辛さを感じ、途中でビニール手袋を取ってしまう。

帰りしなに「陽性っした!」と私に連絡をし、会社にも連絡をし、家が近所の同僚に「数日分の食料とタバコとお酒よろ」と連絡して帰宅。ちなみに医者からはお酒もタバコも止められていたようだけどそんなものはこの先数日間家から出られないなら関係ないとばかりに買い込んできてもらったという。治る気がないのかお前。

 

保健所などの連絡も済ませ、いざ療養開始。

とはいえ、体は元気で熱もない。ただ、喉が痛いから思ったよりタバコがつらい。さっそく喫煙ですか。

5種類ほど薬を出され、保健所の人にもそれを伝える。緊急連絡先として母親を指定。保健所の方が「お母様のお名前をフルネームで、生年月日も教えてください」とやたら詳細に聞いてくることに疑問を感じ「本当に保健所の方ですか?なんかの詐欺ですか?」と聞き返して電話先の方に逆ギレされる。当然です。

この辺りまでで私が三回近く「本当に人として最低だよ」とつっこみを入れています。

療養初日はそんな感じで終了し、数日に一回同僚に買い出しに行ってもらって(市から届けてもらうものには酒やタバコが入ってこないので、そっちは断ったというからなんとまあ)毎日だらだらと過ごす。Youtube隅から隅まで見ましたわ!ああそうかい。

 

金曜日、保健所より連絡があり「療養終了です、明日から出かけて大丈夫です。よかったですね」と言われる。よかったもなにもこっちは延々外にも出られなくて飲みにもいけないから一人飲みっすよ!まあ朝から飲めたのはよかったですけどね!えっそこじゃないよね?

土曜日に自分の足でお酒買いに行けたのが一番幸せだったようです。

なにはともあれお前は詐欺と疑った保健所の人に謝れ。

 

そして昨日、ついに会社にやってきて私が見かけた彼は、体力も筋力も落ちて会社に来るだけで全ての力を失っていた人間とは別のなにかでした。帰りがけにこの療養中の話を聞いたんですが、こういう感じでだらだら療養して万が一にも我慢できず外に出ていたり、治りが悪くて実は治ってないまま外に出たりしてるような人がいるかと思うとなかなかですね。

 

ちなみに今回の教訓は

コロナで自宅療養となったらYoutubeプレミアムに入らないと1日のうちのほとんどを広告見てすごす羽目になる

だ、そうです。なによりかからないのが一番です。

あと、いくらなんでも酒タバコは療養中は控えるべきです。万が一何かあったらどうするのか。身勝手な振る舞いで医療関係に手を煩わせてはなりません。

 

これはあくまでも一例ですが、特に症状が軽い人はつらいだろうと思います。家にいることも、何もできないことも。

でも、正しい行動が一番早急に普段の生活に近づける近道のように感じました。上記は完全に悪い例ですが、なんとなくこれが普通の若者の姿だよなぁ・・とも思ったんですよね。終息はまだまだ先のことに思えてしかたない。せめて心置きなくコンサートに参加できる日常は戻って欲しいものです。

まだ3本、されど3本

ちょっと日が空いてしまった上に年まで明けてしまいました。今日は3にまつわる3つの話。

まずは昨年一年間、コロナにかからなかったことは本当にラッキーだったと思います。県をまたぐ往来を自粛せよ、という時期はもちろん出勤以外では自粛していましたが、それ以外のタイミングですり抜けるようにhydeさんとラルクさんのツアーにばかすか行きましたね。ステージセットが素晴らしくて、かといって華美な感じはなく、アリーナツアーっぽい距離感で見られたのは本当に良かったです。

では今年はどうか、というと今の所1〜6月の半年で確定しているのが3本です。3/31の川口(アルフィーさん)、5/21、22のドーム(ラルクさん)。なんて少ないんだ。なんて少ないんだと思いつつこの3本がすごく貴重が3本なので、噛み締めて参加しようと思っています。ドームのW会員シートは実質1枚27,000円だったんで、片方はすごすごとS席をチョイスしましたよよよ、と…

今年はまだ3本しか決まってないことを思うと、去年はまぁよく行ったなと思います。いろんな電子チケットのアプリが入っていますが、個人的に一番見た目が好きなのはSUKIYAKIチケットです。笑

 

んでもって、去年の夏頃からエンドレスに忙しくワクチンが打てていなかった私もようやく今週金曜日に2回目に行くことになりまして。せっかく半休するなら、歯医者で左側にある銀歯を全部白いのに変えてもらおう!ということで、耐久2時間弱、白い歯に変えてもらうことになりました。保険適応で3本、一気にやります(金属アレルギーで半年に一度膿んでしまうため)。

なんでこんなに銀歯が多いかといいますと、そもそも親知らずが年々横にズリズリと進出してきているせいで虫歯が増えていってるのが原因なのですが、多分私の歯磨きの下手くそさもあるんですよね・・。左下の親知らずはかなり前に抜いたので、こんなことなら残り3本も抜いてしまってもいいかなぁ。ものすごく余裕ができたときに考えようと思います。年齢的に余裕はないんですけども。

 

その年齢についても関係してくるところで、38歳、現状「確実に生えてくる」白髪が3本あることがわかっているんですねえ。これが結構厄介で、1本は自分で切れるんですけど残り2本は誰かに切ってもらわないと切れない位置にあるんです。まだ悩む本数でもないんですが、もうちょい増えてきたら金髪→色入れるが一番いいのかなーとか、色々と悩んでいます。弊社で一番派手髪のお姉さんは、白銀髪とパッションピンクのツートンなんですよ。もうここは超えられないので笑、私なりにこの「今は3本」の白髪を相手にどう戦っていくか考えようというところです。

やさしい嘘

たぶん本当のことなのだろうけど、その人は私に「言いにくいけれど、もう忘れた方が自分のためだと思って」と教えてくれた。

 

これは噂程度に聞いた話だけど、という前置きがあって、どうやら前夫が関東から関西に移住したということを教えてくれた。それにはピンと来るところがあり、離婚前から仲良くしていた後輩の女の子がそっちにいるというのが非常に大きかっただろうと安易に予測ができた。こう言っては何だけど私も前夫も黙っていてもお互い異性に関しては事足りている人生を送ってきているので、こういう話は簡単に予測がつくというか、経験則で「あぁなるほど」と感じることができた。モテる者同士が離婚したんで、お待ちいただいている人たちはそれなりにいたんで、すんませんあとは順番です、ありがとうございます。正式に付き合ってる人はいませんが、もういい歳なんで結婚はどうでもいい。本当にどうでもいい。

 

そう、関西に移住したという話と、私と買ったあの高い車を売った(アメ車だったんで壊れまくってしまい、結果ほぼ無料だったらしい)っていうのを聞いて、もう何もかもを関東に置いて関西に行きたかったんだなぁとしみじみ思った。でもね、関西っていうのが「やっぱ小せぇなぁ」と思わざるを得なくて、今までの交友関係を断ちたかったからというのが理由のようなんだけど、全然甘い。もうみんなに会うつもりはないという決心はわかるが、そう思っておきながらこういう情報が漏れてくるあたりも脇が甘い。やっぱり最後に車代は半分返してもらうべきだったと心の底から思う。

 

「心配性で世話焼きなところがあるから、今でも頻繁に連絡をしているかもしれない。でもそれは向こうにとっては逆に困ることで、すべてを断ち切るために東京を離れたから、もうしないほうがいい。忘れたほうがいい。離婚前から女の影があったなら余計にもう詮索はしないほうがいい」

そう言ってもらって、だいぶ肩の荷がおりた。

私から言い出したことだし、私がいないと何もできないような人だったから、正直会社を辞めたときはものすごく心配した。仕事が決まらないと言ってたときも、だいぶ心配した。

この話も嘘か誠か証明できる人は、私が知る中ではこの「女の影」である存在の後輩だけなのだけど、彼女に連絡をとるなんてことは今更してはならない。でもひとつだけ、気づいたことがある。これが嘘でも、ずっと彼のことを気にかけていたのを気づいてくれていた周囲の人というのは大事にしなければならないということ。きっと前夫のほうがよっぽど傷ついただろうし、プライドもずたずたになっただろうし、しんどかっただろうと思う。だからこそ気にかけていたけど、まぁそうなる原因は私じゃなくてそっちにあったんだからっていう気持ちに自分ではどうしてもなれなかった。

 

とある12月のなーんてことない日、12/22だったか23だったかその辺に、ポンと離婚届を出しに行って、仮面友達みたいな関係だった人たちとも全部縁が切れ、私たちの離婚届を肴に笑って飲み会やるような連中と付き合わなくていいのかと思うとめちゃくちゃ清々して涙のひとつも出なかった。のに、心のどこかでは申し訳なさが残っていて。それを、もういいんだ。こっちが死んでもむこうが死んでも他人だ。それでいいんだ、と背中をおしてもらった瞬間に、二年分の涙が溢れ出た。

 

 

今の方が楽しいです。

だって好きな音楽聴けるし、好きな時間にお風呂に入れて、好きなだけ料理ができる。それができなかったときのことを思えばとても幸せだけど、毎日のように引っかかっていた何かがすっと取れてようやく肩の荷が降りた感じがします。今までありがとうという気持ちもあるけど、お前まじふざけんな車の金返せっていう気持ちの方が今は大きいし笑、それくらいでいいのかなと思いますね。

実は関東にいるのかもしれないし、関西でそれこそあの子と仲良くやってんのかもわからないけど、全部どうでもよくなった。二年引きずったなぁ。長かった。ようやくこれからが私の第二の人生の始まりかなと思います。