コロナ前・最中・その後
記録だと思ってきっちり書いていこうと思います。
周りに感染させるのが一番やってはならないことですので、外出を控える推奨期間の5日間はもちろんのこと、熱が下がっても陽性者は気を付けなければなりません。これは当然のことね。
5/26(金) 感染元である会社の同僚、10人未満の送別会へ参加
5/28(日) 同僚、私と食事を挟みながら打ち合わせ。みるみるうちに具合が悪くなっていくのがわかり、その時点で解散。嫌な予感がする。
5/29(月) 感染元が陽性となったため、以前であれば濃厚接触者という括りだったものの私になにも症状がないので普通に仕事へ。ただ、陽性者になった可能性があるという意識は欠かさないでいた。っていうかどう考えてもあの送別会だったんだろ、結局そういうところから拡がるんだな、コロナの感染拡大の注意喚起している人は意外と自分は飲みに行ったりしてるけど全くもって矛盾してるな・・なんていうことを考えていた。ライブで声を出して騒ぐことだけが感染拡大に繋がるとでも思っているのだろうか。他にも要因は色々とありますよ。
5/30(火) 夕方頃までは普通に仕事をしていたものの、陽が落ちる頃に関節痛がみられるようになる。これはもしかして、と思い、この週にやらなければならないデータをざっくりまとめて持ち帰る準備。帰宅は22時頃だったが、すでに38.6℃で完全アウト。
5/31(水) 会社を休む。朝、近所の病院に連絡をして指示通りに動き、検査をしてもらう。陽性。行動制限はないので帰りにちょっと買い物。喉の痛みが強烈で、咳も酷かったので正直なにか食べようっていう気はならない。夜までに熱は39℃を超える。
6/1(木) 上司から、熱は下がったか?というメールが入る。一時期コロナが流行ってたときの、「熱は1日で下がってあとは無症状だった」みたいなのを想像してるに違いない。全然そういうレベルじゃない。朝と夜は基本39〜39.5℃で、昼間は38.3〜38.5℃と比較的落ち着いていたのでぼちぼち仕事をし始める。声は出ない。
6/2(金) 上司から、熱は下がったか?というメールが入る。出ない声を振り絞って電話をし、状況を理解してもらう。39℃の壁が厚く、全然下がらないし体は痛い。この日は天候が悪く頭痛も酷かった。ピルを飲んでいるため、血栓の不安が出てきたのでなるべく室内を歩くように心がける。
6/3(土) 試しにカレー食べてみた。しょっぱい。鼻が詰まってて味も匂いもわからない(と、思ってた)。久しぶりに固形物?を食べた。大した量じゃないのに一時間半くらい完食にかかった。熱はこのタイミングで下がってきた。
6/4(日) 37℃を超えるのは夜だけになる。倦怠感がすごい。なにもできない。これで月曜から復帰とか冗談じゃない、というレベル。なんとか一日かけて月曜の仕事のイメージだけして布団に入るも、まったく眠れず。
6/5(月) 仕事復帰。食欲がないのでウイダーイン。きっちり残業までして、一日頑張った。
が。
6/6(火) 早めに仕事を終え、ここまで食欲がないならやっぱりここはカレーだろ!と思い立ってスパイスから作るカレーを家でこさえる。(夜22時)
「・・あれ?匂いがしないな?」
いつも生姜とニンニクを炒めてる段階ですごい匂いがしてくるのに、おかしい。
「窓をあけているからかな?」
とか色々考えてたんですけど、出来上がって食べた瞬間にわかったんですよようやく。
「あーーーーーーーー味覚も嗅覚もやられていたんだねーーーーー」
お疲れ様でした。
周りにも何人かこの症状が出た人がいて、完全に治るまでに二ヶ月弱を要したそうなのでしばらく無味無臭生活を強いられるハメになりました。すんげー作ったよカレー。結構作った。全然味しないけどめっちゃある。
体力馬鹿なので、復帰してすぐに体は馴染みました。駅の階段だけちょっとしんどいです。脚力だけ戻ってこないです。早く美味しいものを美味しいと感じられる日々が戻ってきますように。
人が作り出すものにある危うさと美しさ
ものすごく久しぶりにここを開きましたが、なにを隠そうとてつもなく忙しい日々を送っておりまして、一息つく間もないくらい一分一秒が短く感じる毎日です。
責任感のある仕事を任され、一旦は終えたのですが、再び同じようなプロジェクトが動き出しまして今回は関わる人数が三倍に。しかも全員わたしより経験値も立場も遥かに上の人たちで、この人たちを従えて先頭に立たねばならないので前よりも遥かに重圧がすごい。
朝から晩まで誰かしらに何かを聞かれ、その都度図面を作り、打ち合わせに行き、あちこちに確認をとっては修正し、という繰り返し。一日で一気に進むこともあれば、二週間前に戻されることもあります。心が折れている時間も与えられないので夢にも出るしそもそも眠れません。体力も精神力もないと全く成り立ちません。十数年前、まだ物凄くお金も時間もかけられた時代の追い詰められる雰囲気が久しぶりに戻ってきた感じがします。
私たちが作り出すものは、デザインからなにからすべて人工物です。
自然からなるものは何一つありません。
自然のなかにあるもののように本物そっくりに作る、ということはしょっちゅうやりますが、それも人工物。結局は作り物です。
一週間や二週間で解体されるその人工物は、その間に何か事故があったりしてはいけないので危険な作りや見た目にすることは基本的に許されません。重量、重心、色々な計算もします。その上で安全なものを作っています。
街中でクリスマスに見かけるツリーなんかも、大きくて綺麗ですが、そういったことを深く深く考えて設置されているものばかりです。地震が起きた時、誰かが寄りかかったとき、引っ張ってしまったとき、そういう予期せぬことまでふまえて物を作っています。
人が考えるからこそのバランスの危うさと美しさが表裏一体となっている造作が世の中にはたくさんあります。私には理解できないようなアンバランスな作りも、本当に世には溢れているなと思います。
そういう意味で、誰かが考えたデザインで、誰かがそれをリデザインして作り上げて、さらにはそれを解体するまでの工程がひとつの芸術品というか、街全部がミュージアムのような感じに思えてくるのです。
ここに至るまでに何人が頭をなやませたのだろう。
何人が汗水たらしたのか。
相当な人数が関わっていただろう。
色々と考えます。
久しぶりにきつい日々を送っていますが、これを完走しきったら一つ成長できるのかなという前向きな気持ちで頑張っています。
バランスの悪い物って、ぱっと手を離して「はい!どうぞ!」って見せられた時、ものすごく美しいですよね。綺麗に三角に積み上がったトランプ、シャンパンタワー、点で積み上がった石、どれも危ういのに美しい。
そういうギリギリの美しさを目指して今、私自身の限界にも挑戦しています。
お土産大量に買って賞味期限ギリギリに食べる派
地方に行くことがアーティストにとっての日本各地への宣伝であり、「ここまで来てくれたんだ」という観客側の高揚感も大事であるという意味では「その土地に住んでる人ファーストで、遠征組は二の次で良いのではないか」というのは、わからなくもないんですがこればっかりは観客側が何を言ったところでどうにも解決しないことなんですよね。
代わりはいくらでもいるって本当?
よく、転職するしないの会話で「自分がいなくなると仕事がまわらなくなるかもしれない、迷惑かけるかもしれない」みたいな流れになりますが、そんなことはなくて、会社っていうのはいくらでも代わりがいるし辞めてもなんとかなるのが会社だから気にせず自分の好きなようにしたらいいんだよ!っていう結論に達しますけども。
代わり、いねえわ。
と、ここ数年辞めていった"出来る"先輩・同僚に対して思いますね。
会社が悪いんですけど、抜けていった大きな戦力に対して穴埋めできるだけの補填があるわけでもなく、ただただ右下がりで下降していくこの感じはどうにかならないものでしょうか。
私も何度も転職考えて、エージェンシーなりコーディネーターなりに相談してきたんですけどみんな同じこと言うんです。一人辞めてもなんとかなるものですから!と。いや、なんともならない。なんともならないし、結果的に辞めていった人のことを恨むような言葉すら聞こえてくる。もう会うか会わないかわらかない人だから良いのかもしれないけれど、私はそうなってしまうくらいならば・・と思ってしまうんですね。(だからズルズルといるわけではないんですが)
世の中全部が全部「代わりはいる、なんとかなる」わけではないことを、エージェンシーは知るべきだと思うんですよ。その中でもなんとか次のステップに進もうとしている人は相当考えて相当苦しんでいて。それをいとも簡単にみなさん「会社っていうのは代わりはいくらでも」とおっしゃるんです。それを聞く度に転職すんのやーめよ、ってなるので、ぜひ世の中のエージェンシーの方々はそういう職種もあるのだということを知っていただきたいですね。ええ。代わりはいないから今、私の周りは私も含めてえらい目にあっています。本気で恨んでやりたいとも思いますね辞めてった連中を。笑
9月から大きな仕事をしていまして、毎日のように悪夢を見ています・・
なかなか落ち着く時間がありませんが懸命に生きたいと思います。
「行きたくない」
ついに8/31がやってきます。
今は地域によって夏休みの終了のタイミングが異なりますが、概ね8/31が夏休み終わりのイメージで浸透していると思うのでこの話題。
私も学校はあんまり好きな方ではありませんでした。
いじめられていたこともあったし(人って何かちょっと違うところがあるとすぐいじめるし人気者にもなる。この境目は難しい)、中学校は楽しかったけれど、行きたかった高校に入ってみたら学力のレベルがアホほど違いすぎて絶望して高校生活は本当にしんどかった記憶しかないです。ついていくのでやっと。聞けば、私が入ったタイミングが「初の外部生受け入れで偏差値の底上げをはかった」時で、頭のいい子たちが同級生にずらりと並んだ年だったみたいなんですね。ま、そのせいで風紀が乱れたのでまたすぐ中高エスカレーターに戻りましたけど。
社会的にもギャル全盛期で、どの公立に見に行ってもギャルしかいなかったからどうしても私立に入りたいとお願いして、規則の厳しい私立の受験一本で行かせてもらいました。入学したときの成績はそこそこ上だったはずなのに瞬く間に急下落。外部生が帰国子女ばっかなんて聞いてないもん、そんなん敵うわけないやろがい。
「行きたくない」
が言い出せなかったのには、どうしても私立がいいんだと言い張ってしまったことが要因なので親に申し訳なさを感じていたからだと思います。友達もいたし、その頃は楽しいこともあった気がするけれどどうしても馴染めない。勉強できないと周りと話ができないんです。みんな語学の話とか数学の話しかしないから。もうね、苦痛も苦痛。私にもうちょい楽しい話をさせてくれ。
はーーーやだなぁ、行きたくないなぁ、って思っていると寝坊したりするんです。とにかく起きられない。そんな日々を三年なんとかやりすごして、美大入ったら面白いように学校に行くのが楽しくなりました。始発で行って閉門までいて帰ってくるような毎日だったけど、それでも全然苦じゃなかった。やりたいことを見つけると人間は変わりますね。四大に通う人ってだいたい「人生で一番遊べたのは大学」って言うんですけど、短大だった私にとっては人生で一番勉強したのがこのタイミングでした。今でも胸を張って言えますが、しょぼい美大を出たとは思えぬ企業(ブラックですけど)に勤められているのはこのときについた根性のおかげだと思っています。
はてさて。
「行きたくない」
ってどうして言い出せないのか、子供の頃って不思議なもんで親にこういうことをうちあけようっていう考えがまずないんですよね。
なんで行きたくないかがわからないから上手く話せないんです。
だから、よく「つらいときは親に、先生に言って、行かない選択肢もある」と記事で見かけるんだけど、いやいやそうじゃないんだよと。わかんないんだって、なんて言っていいのか。友達が意地悪するから、とか、自分の成績の落ち込みがつらい、とか、ありふれた理由がきっかけなのかもしれないけれど本人が思っている深刻な思いとは裏腹に大人というのはそういうのを重く捉えないんですよ。だってなんやかんや自分もあったくせに全部さらっと流して結局普通に働いているし普通に生きてますからね。わたしたち大人もそんなようなことがあったけど、なんとかなるよ!って言われるのが目に見えているから言っても仕方がないなとなるわけです。少なくとも私は、学費のこともあったけれどそういう風に思っていた。なんとかならないんですよ、子供の悩みは。
それに気づいたのは、毎年この時期に「行きたくないときは、行かない選択肢もある」という記事を見るようになってからです。ようは大人になってからなんですね。
子供の頃はそんなことを言い出す雰囲気でもなかったし、大人というのはきっと子供の悩みを聞き流すものだろうと思っていた、だから言わない子が多いのかと。何が悪いって、大人の「なんかあったら言ってね(言わないとわかんないよ)」の押し付けだと思うのです。
言う前に気づくのは非常に難しいですが、なにか抱えている人というのは挙動も違ってくれば言動にも出てきます。大人でもわかるんです。辞めていった、心の病気を抱えた後輩・先輩を見ていればわかりやすく出ていたのがわかった。ちゃんと見て、聞いていれば子供ならよりよくわかると思います。
私は子供を産まない人生だったけれど、子供が近くにいたらそういうことにちゃんと向き合っていける母親になりたかったです。ま、仕事だなんだでそんなことが出来なくて、結局自己嫌悪に陥ってしまうのがオチだけど、それでも自分の経験を流して終わらせるのではなくて活かしてあげることはできたかなと思います。
悩みがありそうな人には、どうでもいい話題からなんとなく話を聞き出してあげましょう。それだけでも何か違うかもしれません。
毎年陰鬱とした秋を迎えている気がしますが、ちょっとでも笑っている子が増えるといいなと思いますね。
酷暑・強風・お久しぶりの野外ライブ
コロナ禍において、野外フェスというのは密になる・管理が難しいという観点から直前になって中止を言い渡されたりとなかなか世間から厳しい目で見られてきたエンタメのひとつだったように思いますが今年は無事に開催に至ったロッキンに行ってまいりました。
チケットを取る時点で脈々と伝わってくる「チケット取れた本人とその人が指定した人しか絶対に入れない」雰囲気。リセール出すのも一苦労だなこれはと思いましたが、逆を言うと高額取引されるようなこともなくなるので電子チケット(登録まで顔写真の撮影やら何やら大変なのに現地ではすんなりあっさり、どの電子チケットアプリよりロッキンがスムーズでした)はもっと普及してほしいですね。
さて、台風近づく8/12の午前中、現地到着後から早速暴風と炎天下の洗礼を受けて「まずはご飯だな」となる私。
人気の屋台は列ができますが、それも比較的スムーズ。数が多いからですかね。飲み物は高いので家から凍らせたものを持って来ればよかったと後悔。ちなみにこの日のペットボトル消費量はたしか4本でした。それくらい酷暑で、立ってるだけで汗だくなのにさらに動くわ歩くわで水分という水分はすべて出て行った感じがします。
でも凄いのが、今回のロッキン見事に熱中症で救急車・・ということが一度もなかったようなんですね。みんな個々に気をつけていたのかな。素晴らしいと思います。
子供の頃から、夏といえば夏イベ(※アルフィーの野外ライブ)という育ち方をしてきたので野外は大好きなのですが、大人になってまさか昼間から飛んで跳ねて延々し続けるフェスに参加するようになるとは思いもしませんでしたよね。ロッキンとイナズマはできる限り行けるように調整をしています。で、参加するようになったのには理由があるのでそこらへんを書いていこうと思います。
まず、そもそもが根幹として好きなアーティストというのは2〜3組いるとして、それ以外にも発掘をするのが楽しくて行くのが大前提。私はゴリゴリのバンドサウンドが好きでロックばっかり聴いているけど、「これから聞いてみよう」「やっぱりこのバンドもう一回聴きなおしてみよう」という発見が多かったりするのがフェスのいいところです。
そして、何より面白いのが始まった瞬間どれだけ"えっ!?なんだなんだ?見てみよう、聞いてみよう"と足を止める人が多いかを見れる事。初めて見る人を惹きつける力のあるアーティストも多く、私もそうなんですが「このバンドは蹴ってこっち行こう」みたいなことを考えていたのに通りすがってみたら何やら楽しそうじゃないか、こっち聞いてみよう!!!とかそういうことができちゃうんですよね。
そんな雑多なことはしない!っていう音楽の聴き方もいいと思うんですが、こうやって手広く色々と聞いていると意外なところで繋がりが出来てきたりして(この人はこっちのサポートやってる!ということはそのうちここが繋がる?みたいな将来的な楽しみもできる)個人的にはもうここ十年くらいはこの楽しみ方で音楽を聞いています。雑食です。
ベストアクトは、私が好きだからという理由抜きにしてもHYDEさん。
同ステージの一つ前がワンオクですよ。知名度でいったら圧倒的な差があって(勿論HYDEさんも充分有名ですが、ラルクのVo.であるという点を加味しないとなるとソロは聞いたことがない人が多かったはず)失礼ながら勝手に心配してたんです。お隣はCocco姉さんか・・そこからどれくらい人が来るのかなぁ、とか。
隣の男子たちはさらにその次のUVER目的で前の方にいて、HYDEわかんないな、なんか知ってる曲あったっけ?くらいの感じで始まるまで「まあ元々ビジュアル系っぽい人でしょ、どれだけ肌が白いかが見ものだな」とか言ってたんですよ。そういう人もいるだろうと思って見越して凄い登場の仕方をしたんですけど笑、その登場の仕方があまりにも凄くて次から次へと人が来るじゃないですか。あっという間に後ろまでぎっしりになって、HYDEさんに観客全員が弄ばれる様子にどえらい感動しました。あと、過去イチ疲れました。終わった瞬間に「うわーーー嘘だろめっちゃ楽しいーーー」という声があちこちから聞こえたのも嬉しかったなぁ。そうなんだよ、楽しいんですよ。ライブ映えする曲ばっかりなのです。
印象に残ったバンドは女王蜂、Crossfaith(直前にコルレの代打に決まったとは思えないステージでした。最高)。やっぱりね!!そりゃ盛り上がるよね!と思ったのはワンオク。間違いないですね、The Beginningという強カードを持っています。みんなが知ってる曲っていうのは間違いなく盛り上がります。すてんだっぷすてんだっぷ!うぇいくあっぷうぇいくあっぷ!
で、そのワンオクの裏でやってたのが、私がここ最近気に入っているジグザグさんだったわけなんですけれども残念ながらステージに行くことはできず。勢いで単独武道館申し込みました。命様のばかでかい声はワンオクのステージまではっきり聞こえてきてましたよ。びっくりしたわ。
フェスはアーティストとアーティストのコラボも見れるんですが、まさかTaka・Hiro兄弟を違う時間帯に同じステージで見れるなんて思ってもみなくてめちゃくちゃ嬉しかったですねーーー(素人感想)(浅い)(薄い)
オーラル、UVERはフェスでも完全にワンマン化するので言うことはないしすべてにおいて安定していて良いですね。オーラルでファンの人たちの振りを真似してやってたら同行者が「お遊戯会か」とツッコミを入れてくれました。そうですね・・なんか違いました・・
前回までのひたちなかに比べて比較的住宅街が近い今回の蘇我会場。花火も控えめでした。でもアクセス良くなったし、会場もまわりやすいし、個人的には良かったです。ひたちなかの森っぽい環境は日陰が多くて好きだったけど、この行きやすさには勝てない。
次の野外は行ければイナズマです。
このフェスは毎年毎年、台風、秋雨、いろんなものに苦労させられるので万全の準備で行かないといけません。あと、チケット取ろうと決意したの遅すぎて近くのホテルが埋まってました。詰んでいる。
それ以外ですと、アルフィーさん秋ツアーには申し込んであるのと、HYDEさんZepp Hanedaは希望日取れなくて1日だけ参加が確定しています。なにげに楽しみなのはジグザグ武道館です。
と、色々とあるのですが全部仕事を抜きにして予定組みしているので止むを得ず不参加というところも出てきそうな気が・・
先々の予定のためにも、目の前の仕事は頑張ろうと思います。時間のない仕事ばっかりで今月末まで体力もつか不安です。もつんですけど。多分乗り切るんですけど。
っしゃー、なんとかするかぁー!
「アルフィー」の全く曖昧じゃない世界観へようこそ
前回の記事では、たくさんの方に反響いただきました。
ありがとうございました。
今回はちょっと踏み込んだところについて書こうと思っていますのでアルフィーシリーズパート2です。これだってみんなきっと感じているであろう、おすすめしたい気持ちはあるがなんか一般ウケしなさそうな気がしておいそれと他人に音源をすすめられない件について。(下手すりゃマイナスなこと言われそうで怖い感覚すらあるという点)
そして、じゃあどこから音源を勧めればいいかということについて。
昨今の音楽はイントロだの間奏だのアウトロだのはいらないんだという風潮にあるそうですが、アルフィーの楽曲はイントロが長いことが多いですよね。これが受け入れられなさそうな要因かというとそういうわけではないと思っています。
ラジオをよく聞くので、今の音楽も気に入ればかいつまんで聞いたりしています。
全体通して思うのは、イントロのない音楽に"物足りなさ"や”音としてのベースのこだわりはあるのだろうか”という疑問をみんなは持たないのだろうかということ。この疑問を持っている時点でイントロ長い音楽が染み付いていることがわかりますが、どうでしょう?今時の子が、そこを飛ばして歌に行ってしまうのには理由があるように思います。なんでもかんでも現実的な世界の中で、誰かが作る"答えを委ねられた歌(物語)"だけが自分が感情移入できるツールのようになっているように感じざるを得ない。それにはイントロはいらない。だって物語ですからね。
曲に対して、自分なりの考察と想いを重ねて答えを出したい。それが今の音楽の感情移入の仕方なんじゃないだろうか。
歌詞を見てみるとアーティストによりますがかなり聞き手に解答を委ねているようなもの、問いかけて終わっているようなもの、そういうものが流行っているように思います。もう何年も前からその流れですよね。
ほんじゃ、我らがアルフィーはどないやねん。
私はこれがあって、他の人に受け入れられるかどうか、一歩踏みとどまるのですが・・
一曲の中でメッセージが完結していることが多いですよね。難しい言葉、綺麗な言葉、色々と折り重なった上で「僕らの想いはこうだよ」という気持ちが詞や音に乗っかっている。
これはファンマインドからするとド直球で、心に刺されば身体中から涙も出れば瞳から汗も出る。
時代とあっていないとかそういうことではなくて、聞いたことがない人が聞いた時に「芯が強いな!」という印象を持たれるような気がすると思うんですよ。これが昔からで、いっさいブレてないだけに「いやもう鋼の芯の強さやん!」となるわけです。何も知らない人に、そこを踏み出させるのには勇気やエネルギーがめちゃくちゃいるんです。
この歌詞になるのに、作り手にはこういう背景があって、ああでこうで、、と説明したくなりますが、ファンはそれが当然のようにわかっているけどそうではない人に聞かせようと思うとどうしても重たくなってしまう。言うなれば大衆向けではないことは明らか。
えーじゃあどうやって聞かせたらいいのさ?
それはですね、もうコンサートに連れて行ってしまうのが一番orテレビ出演しているのを見てもらうのが二番です。
例の動画もありますけど、あれはあくまでも入り口としてはいいけれどファンとしてはコンサートで見て欲しいし音源を聴いて好きになってほしいじゃないですか。
音楽番組に出れば「演奏・歌がすごい」「ハーモニーが綺麗」とツイッターで散々言われるのだから、やっぱり見れば何かしら人の心に引っかかるのです。同じく長く続いていてどちらかというと大衆向けであるサザンやB'zというバンド体制と違うのは、"あれ?イメージしてたのとなんか違うぞ?"という謎のどんでん返しを発揮する曲を披露するところ。もちろんディスタンス・メリーアン(ラルクでいうところの、HONEY・レデステゴーあたり)を演奏することが多いですが、それでも世間が思っている「怖そうな人・にこにこしてギター持ってる人(実は目は笑っていないことは沼に落ちた後にわかる)・余裕で玉ねぎ丸ごとおたまにぶっこむ王子様みたいな人」からはだいぶかけ離れた姿だと思うんです。
だって、かっこいいですよね?私の父は66歳でまあまあ見た目若い方ですけど、やっぱ圧倒的にあの三人はかっこいいんですよ。68歳だと?なんだそれ。
楽曲の持つメッセージ性の強さに、私としてはなかなか聞いたことない人に聞いてみてほしいとすすめることはできないんですけれど、それは二の次三の次でいいのだとツイッターの反応を見てわかったんです。
最初に推すのはそのギャップとハーモニー。
それだけで充分なんですよ。
ええ、だってもう世の中には変拍子も含めて、テクニカルなことっていうのは山のように開発もされていて、なんなら歌詞は韻さえ踏んでおけば誰でも覚えられて歌えるようになっちゃうんだもの。そういういところじゃないなと思っているんです。
私が是非彼らにフェスもっと出てほしい!と訴えるのは、今時の子たちというのは"自分を主人公にした物語"のベースを求めているけれど、同時に"ものすごく感性が豊かでなんでも受け入れることができる"世代でもあるから、受け入れ幅がありそうだと思うからなんです。バンドってこうだ、グループってこうだ、音楽ってこうだ、打ち込みや生音源はこうだ、みたいなものが今は全部曖昧じゃないですか。それでいて、その中から本当にいいと思ったグループはやっぱり受け入れられていく。それは歌詞であったり、バンド形態の面白さであったり、見た目であったり、様々だと思うんですが私はこのフィールドで『日本はこういうものが長く続くのだ』という代表として出てもいいと思うんですよね。きっと、受け入れてもらえるかは別として「だから長く続くのか」ということは理解してもらえるような気がするんです。
一般ウケを狙ったらそれはもうアルフィーじゃないんです。
多分ディスタンスもメリーアンもあれは一般狙いとかじゃなくて彼らのやってきたことがそのまま延長線上でその時代にウケたというだけで、やってきていることは昔も今も同じだと思うんです。偉そうなこと言うなよという感じですが、私にもファン歴30年弱というそこそこなキャリアがあるのでこれはもう声を大にして言ってやろう。
Z世代には高見沢さんの面白さと三人の仲良しな様子から(結局そこかい)
ミレニアル世代には、一人一楽器担当しながらコーラスをするということの凄さ・美しさから(バンド流行ったし、楽器やりながら歌った事ある人はどれだけ難しいかわかるよね)
そういうところから是非、固定概念をなくして聞いてみてね!!!!!!
ご新規さんというのは最初は色々とあるものですが、そういうのは先輩の後ろ姿を見て理解を深めていくというものです。コンサートも再開しましたし、ちょっと興味のありそうな人を連れて行ってみてください。沼に落ちるまではいかなくても、コンサートが一番「えっ、すごい!」という感想を引き出せます。そしてファンにならないまでも、その後も話ができる相手になりますのでおすすめです。笑
サブスクありますが、よほどのことがない限り予習はしてもらわなくていいと思います。こういうフレーズの・・あの曲はなに?って言われたら儲けもんですよ。即座に紹介しましょう。
ちなみに山田が初めて行く人を連れていって一番「あの曲はなに?」と言われるのは「シュプレヒコールに耳を塞いで」です。どうでしょう。意外でしょうか。